| 詩誌はやっぱり存在として大成功です それぞれの詩誌の個性が、このところよりくっきりしてきている。どういうものにしたいか、というところに率直に向き合ってきているように思える。どのくらい継続した中での今号はどうしよう、とか同人として集う人たちの、楽しく自由に書く場にしたいとか、有る程度編集が必要だとか、思い描くところを受け止め、それを形にして表す、誌面をつくる、という人を根底から元気にさせる行為として、詩誌はやっぱり存在として大成功です、と言いたい。詩誌は、人を根源で解放する詩の言葉がはじめて外部へコンテンツとしてではなく、モノとしてデビューする場なのだ。モノは他者の生活に入り込み、通勤のバックの中や、くつろぐ喫茶店の席や、さまざまなところで手に取られる。この空間の広がりは、実は詩誌を手にした人の生の時間と共振してゆくことなのだ。読まれることが、日々の中で深呼吸に繋がることを願ってやまない。 さて、その詩誌を作ったり、変化をさせたりすることが以前よりもスムーズになってきているように見える。それは同人や寄稿者、主に同人だろうが、編集のために会って話すだけでなく、メールを往復させ、詩誌作りの過程が細やかなってきて意思疎通もうまくゆくようになったのではないかと思われる。詩誌を作るときのフットワークが今良い傾向に変化してきているのかも知れない。 今回創刊された詩誌『酒乱』は編集委員(小川三郎・群宏鴨 ・廿楽順冶・森川雅美)で検討した作品を載せる形をとっている。創刊号とあって勢いのある詩やエッセイが載っている。松本秀文のエッセイ「どこへ行けばいいのか分からなくなった時代の中で詩を書くということ」では表現への飽くなき追求の意欲と書くことへの醒めた位置が印象深い。「新しい表現などない。あるのは、組み合わせの「妙」である。」というところは古川日出男が小説の本文のなかで、自分の書く物について、これは以前に書かれた物語の引用とコラージュだ、新しい物語ではないと言い放っていることと重なってくる。それでも、その作者の世界からしか喚起されない独自のものが読者に残ってゆくのだが、そこへ向けた実践は、言葉を追いかけつつ構成するたいへんな力業といえる。松本の詩「乗合馬車オムニバス」はエッセイを読んだ後の方が、その松本の取り組んだ力業に入り込んで読める。とくに幕間劇と第2幕の事件推理じたての構成を謎解きしながら読み、そのなかに漂ってくる醒めた熱のような情感に触れることができる。これから作者がより開かれてゆくだあろうと期待が生まれる。また伊藤浩子の詩「象の墓場」は少年と父の間にはいる「象の脚」というモノをどう扱うか、扱えたか、どう見誤られてしまったか、という出来事から家族という隠れていても深く関わってくる関係について向き合った詩で印象深い。小峰慎也の「ずしりときた。それでいいのだよ」の詩集評と詩の言葉に沿った応答で読ませた。三村京子の「ランディ・ニューマン」の歌詞との時代との間を潜った考察も面白い。 詩誌Z『フットスタンプ』15号は前14号のゲスト西元直子を再び迎え、前号の西元の詩をふくめた話題でじっくり座談会をしていて存在感がある。座談会には同人全員、池田俊晴、遠藤誠小島浩二、白鳥信也、田辺武の5人が参加して話しを展開してゆく。西元直子の詩集『けもの王』や前作の詩について、5人全員がとても熱心に読み込んであって、座談会がたいへん面白い。詩の実作者としてさまざまな角度から、詩人の今現在の言葉との関わりを率直に引き出していて、しなやかな実作の過程の手触りをみせる上質のメーキングフィルムのようになっている。ここまでするには、座談会の日取りを決めたり、テープに録音してテープ起こしをしたり、構成で複数の目を通したりという隠れた作業があるわけで、それだけでも労力がいるのに、それを感じさせないのは、フットスタンプの人達が詩の言葉と具体的につきあいながら、詩人に質問することを、熱意をもって楽しんでいるからだという姿勢が伝わってきて、それも素晴らしいと思えた。また決められた単語を必ず使って全員が詩を書く実作特集が、それぞれ異なる資質を際だたせることに繋がり面白かった。 詩誌『tab』9号の閉じてない詩誌の粒だった作品集からは、今回は鈴川夕伽莉のエッセイ「菜の花」が圧巻だった。花屋さんで花を選んでいるところから花屋さんとのやりとりが細やかな文章にのって描かれている。お墓参りに菊を止めて菊ではなく、菜の花をこの人は選ぶ。なぜか。明るくしたかったから。それは「友達のお墓参り」だったからだ。花屋さんの言葉も効いている。「菜の花は私も好きなんです//安くても可愛くて、葉っぱが沢山あるのも綺麗でしょ」このような始まりの菜の花に込められた心が、ずっと響いてゆく文章だった。同じ大学の医学部の友達のsちゃんが、真っ直ぐな人だったことや、純粋な向学心に嫉妬した自分のことなどを含め、二人の関係を知ってゆくなかで、二人とも医師国家試験にパスしたのもつかのま、外科系の医師になったsちゃんが、過労で倒れ、亡くなったのだ。それは国の旧制度の医師研修制度の犠牲なのだという。「私は日々追い詰められ疲弊し、しばしば心が「死にたい」と呟いた。」という過酷さ。その環境をエッセイは身を以て暴く。高校の恩師は言う「君たちは死んではならない。頑張り過ぎてはならない。」と。けれども「この国の医療は、個々の医師たちが「頑張りすぎること」を止めれば即座に崩壊する。(略)「自分の判断ミスで目の前の患者の命を危険に曝すか、それとも自分が過労で命を落とすか」というデスマッチな感覚を覚えた」という恐ろしい事情が暴かれる。作者の、sちゃんの不慮の事故への怒りが医療システムへの批判へ向かうことに共感を覚える。けれど、エッセイはただ批判にゆきついて終わるのではなかった。sちゃんの家族から26歳で逝ったsちゃんの思い出を綴る写真集を渡され、作者はsちゃんが闘病中に書いた詩と出会うのだ。作者はその詩を「強い感受性で持って自己の内面と向き合い、厳しい現実に対峙せんとする姿が浮き彫りになっていた」と発見するのだが、その詩を読んだことで、sちゃんの「生きる意志」が作者の心に入り込んでゆくようすが胸を打つ。sちゃんの詩の言葉が「あたかも植物の種子の如く、私の心の脆弱な凍土にばら撒かれた。」「死の直前まで真っ直ぐに生きようとした彼女の意思が私に突き刺さり、固くて丈夫な根を張りめぐらせた。」と表されてゆくのだ。詩の言葉はこのように書かれ、このように人の生きる力になれるという出来事を鮮やかに見せてくれた「菜の花」のエッセイは傑作と言える。 詩誌『SOOHA スーハ!』3号では、中島悦子のエッセイ「魚半の魚」で永瀬清子と会って話した思い出から、多くの示唆をうけた内容が丁寧に書かれている。印象深いのは作者が、永瀬育子に、どういう心構えで詩を書いているのかを問うと「永瀬氏は、仕事を持ち、家事、育児をする女性には、こまぎれの時間しかないが、一旦書く時には、トラックに轢かれるような気持ちで書くというようなことをお話になった。」という部分。作者はそれをかみ砕いて、「詩の本体とは、大きなダンプトラックが猛スピードで向かってくるような激しいものであり、それをつかむためならば、同じくらいの勢いでぶつからなくては、何も得られない。一度、死ぬ覚悟をくぐりぬけてこその表現なのである。」とその意を開いてみせる。その上で、作者は現代の価値や意識の細分化による住み分けや、それによる個別化や孤立化の溝を、もうまじわることがないのかもしれない、と冷静に認識し憂えながら、「永瀬氏の時代にぶつからなくてはならなかった「トラック」と今ぶつからなくてはならない「トラック」とは明らかに違うもののようである。私が聞いた「ダンプトラック」は、何かもっと実体のある形のあるものとして、ダンプトラックが意識されたのだったが。」と距離を認識していて鋭い。そしていまの時代の空虚さと無力さの怖さを「轢かれたら、ホントに死んでしまうかもしれない。」という言葉で書いている。そう言葉にしなくてはならないところに来ている作者には、きっと、そこを生きてゆくために、詩についての考えを文字にして書くことで、あるいは、わからない怖さを、危機感をも含めた詩、で理路整然ではなく書くことが必要だ、ということが見えているように思われる。本号の中島悦子の詩「石蒜の左右」にはその危機感がある。不条理な出来事をかいくぐるようにすすみ、悪夢のなかを目的の行きたい駅へ急ぐ。駅が文字を読むことや他者に読み聞かせる場であり、可能性を持つ場としてあることが、交通や交流の象徴として鋭く現れている。「自分で読んだ方が早いのです/いいえ どうしても乗客とある時間心中しなければなりません」。ここではエッセイにあった「何かもっと実体のある形のあるものとして、ダンプトラックに轢かれる」こと、つまり詩の言葉を介して共感や共苦をもちたいという思いが切実に語られているのだった。 詩誌『紙子』は編集者が代わって清野雅巳になっている。清野はあまりそれによって変わりがないと言っているのだが、今回山本しのぶの詩「hole」や内藤ねりの詩「ら・りねん」などがすっと目に入ってくる誌面になったような印象をもった。山本の、イメージに実感を持ち、その中を体感を伴って感じ考えてゆく詩や、内藤の、イメージする物語世界の中で呼吸しようとする詩が、とても見えやすくなっていた。 詩誌『庭園』は浅山泰美が1988年から一期二期、そして休刊も含め、20年間続けきた冊子。今号は20周年の節目という意識でアンソロジーを編んでいる。「二十周年記念詞華集」には23人の詩人が参加しているなかで評者の拙詩と写真も参加しており恐縮だが、渡邊十絲子の詩「ゆずりは」、小島数子の詩「空に深く見下ろされて」、渡辺めぐみの詩「心音」、高岡修の詩「牛」、などなど読み応えがある。 |